超高齢社会の到来を受け、増大する医療費削減の観点からも予防医学の意義が再認識されつつあり、漢方が世界的に注目を集めています。奈良県は漢方について、飛鳥・奈良時代にまで遡る歴史的・文化的厚みや、地場産業として配置薬業が発展してきた他府県にはない特徴があります。こうした奈良県ならではの蓄積を活かし、原料となる薬用作物の生産、漢方関連品の製造販売に関する既存薬業等の振興もさることながら、関連する新たな商品・サービス等の創出も視野に入れ、県内産業の活性化を図っています。
当社も協議会に入会しており、漢方のメッカ推進プロジェクトの一員として大和当帰を使った新発想のハンドクリームを開発いたしました。
発足:平成24年12月
体制:部局横断体制で推進
プロジェクトに参加している奈良県研究機関
日本最初の薬猟
日本書紀には、推古天皇が現在の宇陀地方で薬猟をされたという記述(611年)があります。
【日本書紀】巻第二十二、推古天皇十九年(611)
「夏五月の五日に、菟田野(うだのの)に薬猟(くすりがり)す。鶏明時(あかつき)を取りて、藤原池の上(ほとり)に集ふ。会明(あけぼの)を以(も)て乃(すなは)ち往(ゆ)く。」
正倉院宝物の一つ 種々薬帳
東大寺正倉院の宝物の中には、21の漆櫃に納められた60種の薬があります。これらは奈良時代(756年)の聖武天皇崩御七七忌に光明皇太后・孝謙天皇が東大寺盧舎那仏(いわゆる奈良の大仏)に献じ、同時期に建立された正倉院に保管されたものです。
それらを献納した際の献物帳も現存しており、巻首に「盧舎那仏に奉る種々薬」とあることから、一般に「種々薬帳」と呼ばれています。
現存する日本最古の私設薬園
八代将軍徳川吉宗の時代には、江戸幕府の採薬使である植村左平次政勝による薬草採取旅行が行われ、大和では、これに森野藤助通貞(号:賽(さい)郭(かく))らが随行。その後、賽郭は幕府から薬草6種を拝領し、自ら採取した薬草とともに(現在の宇陀市にある)自宅の裏山で栽培したのが森野旧薬園の起こり(1729年)です。
配置員が全国各地の家庭を訪問して薬を配置する「配置売薬(置き薬)」
江戸時代中期に大和の名薬として、米田の三光丸、中嶋の蘇命散などが著名となりました。大和の配置売薬は、民間の力で広げていった経緯がありますが、幕末の頃にはほぼ全国に行商圏を広げています。これに伴い、富山売薬と競合することになり、紛争を避けるため、1866年に大和、富山、加賀との間で協定が結ばれました。その内容は「仲間取締議定書連印帳」に記されています。